30年前の残像


いつか来ようと思っていた。そう思いながらも実現せぬままに、10年前の大震災で街は大きく変わり、30年前の風景を辿ることがなんとなくためらわれた。あのときのままの街の姿が、今もきっとそこにあって欲しい。30年も経ち、震災復興を果した街にそんなノスタルジーは無用と知りつつも、輝いていた青春の断片が今なお息づいていて欲しいと願う気持ちは、許されてもいいだろう。
出張先からの帰途、幹線を逸れて北に向かった。バス通りの交差点で信号待ち。すでに日は落ち、街はシルエットに消え入ろうとしていたが、右手に川があり正面にスーパーマーケットの看板のある風景に確信を持った。ここだ。

スーパーの角を左折し細い坂道を上ると、あたりはすっかり住宅地だ。最初の角の手前に車を寄せて降りた。当時、2階建てのコンクリートアパートが3棟あった。4畳半一間の入口には流しはあったが、トイレは男女の区別もない共同トイレ。それでも名前だけは「グランドアパート」と威勢がよかった。たくさんの学生が、若者が、それぞれの青春を過ごした場所だった。そこに今は立派な高層マンションが建っている。
いつも食パンを買いに行った道端のパン屋、そこはマンション住人の子供広場に変わっていた。パン屋の前にはお好み焼き屋があって、仲間と風呂上りのビールを分け合った。そこは更地になっていて、ジュースの自動販売機が1台あるだけだった。パン屋とお好み焼き屋の前を上がると阪急の踏み切りの角に銭湯があった。

その銭湯は今もそこにあった。胸が熱くなった。時には日の高いうちから風呂を浴びにゆき、友と連れ立っては湯船で繰り言を笑いあった。すっかり変わり果ててしまった風景の中で、この銭湯だけが懐かしい友のように30年ぶりの私を迎えてくれるようだった。
路上駐車の車が気になり、スーパーの有料パーキングに止めなおした。ここから水道筋商店街のアーケードに向かって歩く。アーケード入口の八百屋は商売が受け継がれていた。だがアーケードの商店は早々とシャッターを下ろし、あるいは、昼間でもシャッターが開いていない雰囲気の店も多くあった。当時は賑やかだったアーケード街というビジネススタイルも、時流から取り残されて細々と生き長らえているといった風景は全国どこでも同じだ。

いつも負けてばかりいたパチンコ屋は続いていた。よく行った伊万里という定食屋はもう無かった、「パピヨン」や「未亡人下宿シリーズ」を観た映画館はとっくになくなっていた。当時、学生という目線で見ていたアーケード街も、親爺の目線でみるとすいぶん違って見えた。学生時代には立ち寄ることもなかった小さな赤提灯が結構目につくのだった。そこで一杯引っ掛けている中年親爺たちも、30年前は夢と希望に満ちたそれぞれの青春時代をどこかで過ごしたはずだ。なあ、あんたらの夢と希望も、置き去りのままかい?
アーケードを抜けたところで引き返し、反対の出口から路地に折れた。ここに中華料理屋があったはずだ。だがもう店は無かった。そのまま歩けばグランドアパートのあった今はマンションの場所。カメラ片手にウロウロするストレンジャーに、通行人が怪訝な視線を投げてくる。怪しいものではありません。30年前の残像を写しに来ただけの、ただのオッサンですから。
多くのものが姿を変えた。しかし、確かにそこで暮らしたという記憶のフレームだけは今なお崩れずそこにあった。車を出すとたくさんの友の顔が走馬灯のように駆け巡った。こみ上げてくるものを抑えながら、カーラジオのボリュームを少し上げた。

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2 throughts on "30年前の残像"

  1. 全く偶然にこの記事を見つけました。約30年前、映画館、都温泉、伊万里—
    すべて懐かしい文字です。この記事はきっとM.T.さんが書いたものだと
    思います。

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  2. A.N.さん
    ひょっとしてC棟2Fの住人?
    もしそうでしたら、ぜひトップの郵便ポストをクリックしてメールアドレスを知らせてください。
    あの頃の僕たちの輝きはすかり色あせて行きましたが、心の奥の奥のところで、いまなおチロチロと残り火が揺らめいています。その頃の仲間たち無性にと再会したい気持ちがしています。

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