秘境と清流の四国路【桃源郷祖谷の山里 前編】


結婚30周年の記念旅行を一緒にと、出不精の我が夫婦を娘夫婦が引っ張りだしてくれた。行き先は四国高知方面としか知らされてなく、それでも直前の連絡でようやく徳島から高知へ向かうらしいことが分かった。しかし、それ以上のことは教えてくれず、何かとんでもないサプライズを用意しているらしかった。
10時過ぎに岡山駅で娘夫婦をピックアップし、瀬戸内海を渡る。幼い我が子たちと正月の家族旅行で初めて四国に向かったのが1999年だったから、あれから15年近い歳月が流れた。私は会社員をリタイアし、娘はよき伴侶を得た。懐かしい思いで瀬戸大橋を渡る。

お昼は「うどん県」丸亀市にある有名店「なかむら」で。行列のできるうどん屋らしいが、平日だったせいか、すんなりと入ることができた。セルフ式のうどん屋で、玉を自分で湯上げし、好きな具をトッピングし、好きなだけ汁をかけてから別棟のテーブルに持ち込む。しっかり腰のあるうどんを期待したけどそうでもなく、つるりとした食感のこだわり麺を薄めの汁で美味しく頂いた。市内で給油を済ませてから高速で南に向かう。徳島に向かうのに高知方面? 疑問を抱きつつ後部座席でうつらうつらと揺られる。

高知道大豊インターで下りる。娘夫婦があてにしていた、インター近くのスーパーはあいにくクローズ。目的地へ向かう道すがら、途中のスーパーで食材の買い出し。どうやら今晩は自炊らしい。でも、これからどこに向かうのだろう?
R32沿いをしばらく北上する。並行している深い渓谷は吉野川だ。吉野川は四国山地を北上したのち流路を真東に変え、徳島市で太平洋へ注ぐ。上流の大歩危・小歩危はホワイトウォーターカヤックやラフティングで有名だ。そんな話を隣の妻にしながら、眼下に見え隠れする激流に目をやる。その大歩危の看板のある交差点を右に折れ、県道で一山超えるといよいよ谷は狭まり、祖谷(いや)と呼ばれる秘境へと入る。急斜面の上にいくつかの集落が見え、平家や源氏の末裔の静かな暮らしがある。

谷沿いをかなり走ってから、県道を逸れたところにある小さなログハウスの事務所に止まった。「今日の宿はここです」 娘がようやくサプライズの種明かしを口にし始めた。それでも宿らしきものは周辺にはなく、当惑しているうちに手続きを終えた娘夫婦が車に戻り、先導車に付いて山道を30分あまり上った。
路肩のスペースに車を置き、この先は車道が無くなって、3分ほど砂利道を歩くのだとガイドがいう。手分けして荷物を運びながら、眼下に広がる深い谷の景色を眺める。

ようやく、サプライズの時を迎えた。今日の宿は、山村の最上部に建つ古民家再生の宿泊施設「浮生」(ふしょう)。一軒貸し切りの一泊ステイだ。ガイドなしにはとてもたどり着けない、まさに究極の隠れ宿である。

萱葺き民家を再生した宿は、電子ロック、IHコンロ、床暖房、水洗トイレ、Wi-Fiアクセスポイントなど、都会人のステイにまったく不満不便のない設備が備わっている。古民家ステイだから我慢という妥協を一切排した、近代的な内装設備が準備されているのである。東洋文化研究家のアレックス・カー氏のプロデュースだという。氏の名前は今回初めて知ることになったが、日本人以上に日本の感性を大事にするプロデューサーなのだろうと思う。しかも、現代人にその「おいしいところ」だけを快適に存分に楽しんでもらおうという、氏のホスピタリティ精神が素晴らしい。

バスルームには大きな窓があり、湯船から山や谷の景色を楽しむことができる。大きな湯船は実に快適で、夜、私は明かりを消して月と夜の雲海をゆったりと眺めて過ごした。

リビングの真ん中には囲炉裏が切ってある。800mの高所で縁側を開放して過ごした夕方も、床暖房のお陰で快適に過ごせた。

旅行前に妻がこしらえた栗の渋皮煮でお茶にしながら、今日一日の長いドライブで揺られ続けた体をゆっくりと開放させてゆく。

雨上がりの霧が谷底から上がっては上空で薄まって消えてゆき、山里の夕暮れは足早に訪れた。

娘夫婦が台所に立ち、この日のために考えた献立表を見せながら、心のこもった料理でもてなしてくれた。T君から、大吟醸「福寿」をプレゼントされた。すっきりとした美味い酒だ。

通りすがりの小さなスーパーで思い通りの食材が揃わなかったことを詫びながら、二人でこしらえてくれた料理はどれもとっても美味しかった。鮮魚が手に入らずやむをえず調達したサンマの味醂干し、みんなで甘過ぎるねと言いながらも、T君が縁側で焼いてくれたことを忘れることはないだろう。岩豆腐というらしいが、にがりを多くし、崩れないようにした祖谷地方独特の木綿豆腐も美味しかった。

夜が更けると谷に霧が這い、晴れ渡った空には月が煌々と照っていた。月明かりと、僅かな街灯に照らされて、霧がゆっくりと流れてゆく様は、見飽きることがなかった。

月が西に傾くと、東の空には満天の星が輝いた。記念旅行の初日、祖谷の山里の古民家ステイを、手料理でもてなしてくれた娘夫婦のセンスとホスピタリティに心から感謝しながら、谷底から上がってくる低い沢音を子守唄に、心地良い眠りに落ちていった。
2013/10/11 D7000+SIGMA17-70mm, 10mmFE, 10-20mm

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2 throughts on "秘境と清流の四国路【桃源郷祖谷の山里 前編】"

  1. 祖谷とタイトルに出てきたので、ひょっとしてと思っていたら、アレックス・カープロデュースの古民家ステイをされたとか。昨年私はアレックス・カー、佐伯快勝両氏の対談本『世流に逆らう』を発行したばかりで、一昨年取材に訪れた祖谷の光景を思い出しました。
    やはり出版物の宣伝力不足は否めませんね。ぜひご一読を!
    心優しい娘さんの配慮はうらやましい限りです。

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  2. ibarakiさん、コメントありがとうございます。
    意外にも、但馬でアレックス・カーと繋がりましたね。北星社からそのような本が出ているのは知りませんでした。ぜひ読んでみたいと思います。
    アレックス・カーの再生古民家ステイに関しては、娘の職場仲間からの情報だそうで。素晴らしい場所を紹介してくれたその方にも感謝です。

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