池田さんの悲報が届いたのは昨日の午後のことだった。本当に悲しい報せだった。
池田さんがコウノトリの郷公園の研究部長として着任されたのは1999年9月1日。奥様と娘さんを連れて、東京から豊岡への決意の移住だった。文化庁のとても偉い人が来たと回りは構えた。けど、池田さんはちっとも偉ぶることなく、知をひけらかすことなく、私たちの目線で接してくれた。
力のあるリーダーだった。研究部長としての活躍はもちろん、豊岡の宣伝部長として、様々なコネクションをフルに使って豊岡の魅力を世界中に発信し続けてこられた。そして2005年9月24日、コウノトリを野に帰すという最初の約束をみごとに果す。
いろんなポケットを、いっぱい持っている人だった。いろんな仲間が池田さんを慕った。オヤジ団という怪しげなグループの首謀者でもあった。
この写真は、オヤジ団の一人の還暦祝いのときのもの。一五一会という楽器を演奏してくれた。曲は確か、「涙そうそう」だったと思う。
写真家・宮崎学さんを囲む会での挨拶のシーン。茶目っ気のあるトークで人をひきつけるのが抜群に上手かった。
2008年12月19日の昼休み、研究室の荷物を業者に引き渡し、東京に向かう直前の池田さんを郷公園に訪ねた。
私とはずいぶん久しぶりに顔を合わせた。
「ま、そういうことだ…」
「元気になって、きっとまた戻ってきてくださいね」
「俺がいると、これからはかえって重荷になるからさ」
「こんだけ(コウノトリが)飛んでりゃ、もういいじゃん」
それが池田さんとの最後の会話だった。病と闘う池田さんには言葉を掛けないでおいた。
そして、もう池田さんの声を聞く事は叶わぬこととなった。
2007年11月、フレーベル館から「コウノトリがおしえてくれた」という本を池田さんは出した。少年時代から放鳥コウノトリの野外繁殖までの、池田さんの人生が綴られている。「オレもそろそろ、こんなのを書いてもいいかと思ってさ」と、池田さんは笑いながら自著にサインして私に渡してくれた。
池田さんの訃報に接した夜、この本をもう一度読み返した。池田さんとのいろんな場面が思い出されて、胸が詰まった。
写真はこの本の最後のページである。池田さんに、「この写真は最高ですね」と感想を告げると、嬉しそうに「いいだろう」と頷いた。高所作業車のバケットの上から、46年ぶりに野外で巣立とうとするコウノトリのヒナを、池田さんが撮ったものだ。
「未来へ…」と題された見開きのメッセージには、池田さんの思いのすべてが語られているように思う。
池田さんが亡くなられた日、そうとは知らず私は1冊の新刊をネットで注文していた。それが今日届いた。同じくフレーベル館の「みえとコウノトリ」という絵本だ。池田さんが文を書いて、永田萠さんが絵を描いた。
病の床にあっても、池田さんはコウノトリとこどもたちの未来を思い続けていたのだ。コウノトリの上にまたがって豊岡盆地の上を舞う女の子の姿は、実は池田さん自身の姿だ。
池田さんを乗せて飛ぶコウノトリは、きっと、先に亡くなった野生コウノトリのハチゴロウだろう。迎えにきたハチゴロウの背中に乗って、池田さんは天に昇っていったのだと信じよう。
池田さん、残念でなりません。ご冥福をお祈りいたします。
池田 啓氏(いけだ・ひろし=元兵庫県立コウノトリの郷公園田園生態研究部長、兵庫県立大教授)13日午前11時30分、胃がんのため東京都杉並区の病院で死去、60歳。山口県出身。
2010年4月14日配信の共同通信ニュースソースより引用