トップ>たじま川日記>このページ
春雷の稲葉川は再び幻に帰す 『捨て台詞を残して飛び出した娘がずぶ濡れになって家に戻り、再び家族 の絆が緩やかに復活する。窓の外には春を告げる春雷が鳴り響いている』 そんなラストシーンを、二人は雨に打たれながら思い出していた。高校時代 の文化祭で、我々のクラスが選んだ出し物は演劇だった。「春雷」というシ リアスな劇は、すのーべるさんを準主役の父親役、私が演出というやり方で 開演されたのだった。 それにしても出艇直後から降り始めた雨は、次第に強さを増すばかりで、や がて雷を伴い、雹まで降り出した。午前中の晴れ間に気を許してここまで来 たが、午後は大荒れになるとの気象台の予報は正しかった。右岸の竹薮の下 に座って、土砂降りの中で雷の通り過ぎるのを待ちながら、すのーべるさん がぽつりと口に出した駄洒落。スプレースカートを頭から被り、河原にうず くまる奇妙な親爺二人の笑い声が、一瞬雨音と川音を消した。その場で今回 の川下り紀行文のタイトルキャッチが決まった。彼はこう言ったのである。 「なあ、僕たちの"春雷"関係って、あの時から始まったんだよなあ」 すのーべる邸で今日の行先を初めての稲葉(いなんば)川に決め、車で遡上 しながらポイントを下見して回った。稲葉川は神鍋高原や蘇武岳の水を集め て、すのーべる淵手前の左岸で円山川とやわらかく合流する。いつも合流ポ イントに来るたびに感じた想像の中の稲葉川は、やさしい表情を持っていた。 下見をしながらも、二人ともその考えを大きく修正することは無かった。中 流域から上流域に変わろうとするあたり、巨大な溶岩に水路を塞がれて強烈 な勢いで細い水路から5mあまりを一気に落ち込む滝を確認したあたりで、 我々の想像が間違っているかも知れないことに気付き始めるのだった。ここ に吸い込まれたら確実に死ぬな。そんな恐怖感を、ドォードォーと轟く滝音 が助長していった。 さらに上流を目指したが、神鍋高原から雨雲が急速に近づくのが分かり、途 中で出会ったすのーべるさんの知人から、山は大荒れという情報を聞く頃に は、すっかりこの日のツーリングに対する希望が萎えていた。「今日は、あ の取水ダムの下からにしようや」 一気に暗くなって行く空の中、2キロ半 ほど戻ったダムのたもとに車を着けた。出艇したのとほぼ同じタイミングで 雨が落ちてきた。そして僅か15分下ったこの場所で、我々は激しい雨を体 で受け止め、雷鳴を聞き続けていたのだった。 少し雨足が弱まったところで缶ビールを開けた。それでも容赦無く雨水がプ ルトップから流れ込み、ビールは次第に薄まっていった。すのーべるさんが スプレースカートを頭から被り、「これ、グーよ!」などと言っている。私 もそれに従い、お互いの格好がシンデレラ城の魔女のようで、ゲラゲラと笑 った。「いやぁ、よく似合っている」「今度のハロウィンはこれで決まりだ」 雨の河原でうずくまっている時間はむしろ楽しかった。春雷の一言がトリガ ーとなって、我々の会話は当時の同級生の女の子を巡って長々と続いた。 春雷関係をかみしめるすのーべるさん 1時間ほどで最初の雷雲が去り、雨足が弱まった。ようやくお湯を沸かし、 ラーメンにした。一旦萎えた川下りの意欲も、ラーメンの汁を飲み干す頃に は復活し、雨水の溜まった艇に再び乗り込んだ。「雨が降っているときは、 フネを逆さにしないといけないなあ」、また一つ得た教訓を語り合いながら 我々は未だ見ぬワンダーランドへと漕ぎ出して行くのであった。 降下は次第に困難の色を濃くして行った。溶岩を縫って次々に現れる浅瀬や 細い水路は、ここが火山が作り出した川であることを改めて教えてくれるの だった。ほどなく大きな滝が行く手を阻んでいた。手前で下船し、様子を確 認するために崖っぷちに進んだ。岩盤を裂いて一個所に水が集中し、そのま まおよそ6mの落差となってストレートに落ち込んでいた。滝の下は深い淵 であり、命知らずのカヤッカーなら落ちても行けるだろうと思った。当然な がら、我々にはそんな勇気も技量もなかった。突然、すのーべるさんが非常 に驚いた様子で後ずさりして声を震わせた。「ヒ、ヒトが落ちたぁ!」 すぐに冷静さを取り戻した彼はもう一度観察に向かい、それが川ガキの勇気 ある遊びであったことを私に伝えた。「びっくりしたぁ、飛び込み自殺の現 場に遭遇したのかと思っちゃったよ」、興奮を鎮めながらすのーべるさんが 笑った。 ポーテージするためのルート工作に向かった私は、絶壁の上でバスタオルを 巻いて帰り支度をする3人の少年を見つけた。「お〜い、飛び込んで遊んで いたのかぁ?」 突然現れたヘルメットにスプレーぶらぶらの親爺に驚く様 子もなく、3人が首を縦に振った。「寒くないのかぁ」と問えば、あまりの 寒さにもう引き上げるところだと一人が答えた。毎年、ここで飛び込みをし て遊んでいるという。今年は今日が初めてだとも教えてくれた。貴重な生物 がまだ生息していたことを、すのーべるさんと喜び合った。垂直に近い岩壁 には適度な足場となる部分があり、レスキューベルトとスローロープを使っ て2艇を慎重に降ろした。カヌーを始めて以来、こんなスリリングなポーテ ージは初めての経験であった。少年達は叱られると思ったのか足早に去って 行き、彼らの秘密と勇気の現場を川の上から確認してから我々も先を急いだ。 ポーテージ後、川ガキの生息場所を検証する 下見で渡った町営住宅裏の橋の手前、岩盤の狭い水路をすのーべるさんが先 行した。橋をくぐったところで一旦止まり、何かを思案しているようだった が、やがて右に静かに姿を消した。OKと判断して私が続いた。先ほどすの ーべるさんが躊躇していた場所から、すのーべるさんが「来い、来い」の手 招きをしているのを見下ろした。パドルを入れてひと漕ぎしたところで、フ ワリとサイクロンが宙に浮き、そのまま加速度を体に感じながらバウから落 ちて行った。「おおっ!」と叫んだかも知れないが記憶に無い。とにかく気 付けばうまく着水して艇をコントロールしていたのだった。 「びっくりしたぜぃ!」 「いやいや、安全を確認した上で、黙ってOKを出したんだ。どう?気分は?」 振り返れば2mあまりの落ち込みがあり、我々の浮かんでいるのは静かなプ ールだった。後ですのーべるさんが語ったところによれば、静かに彼が消え たあの状況は、実は昔のTVにあったクイズ番組の滑り台で我慢する解答者 の気分だったのだという。車での下見でこの落ち込みとプールは確認してい たものの、突端まで流れてきて両腕で踏ん張ったまま今後の行動を考えてい たらしい。最初から落ちるつもりはなかったという。我慢しきれずに、万歳 をしながら風船の中へ飛び込む解答者。それがその時のすのーべるさんだっ た。手前で下見をすれば、おそらくポーテージしたかも知れないこの落ち込 みは、我々にとっては楽しい冒険記録となった。ただしこれ以降、今まで以 上に慎重に下見を繰り返しながら降下を続けたことは言うまでもない。 橋の下流にダイブした落ち込みが小さく見える 再び雷雨が強まり、カーボンのブレードを上げるたびに、ここに雷が落ちて きやしないかと冷や冷やした。右岸に上がり、雷をやり過ごしながらコーヒ ータイムにする。さきほど学習した通り、コクピットは下に向けておいた。 湯が沸く頃、頭上で鳥が美しく囀った。「おっ!オオルリ!」 見上げる木 の枝にオオルリの姿を確認した。コーヒーを啜りながら、口笛でしばらくオ オルリとのセッションを楽しむ。まあ、オオルリにとってみればいち早く確 保した自分のテリトリを荒らすものへの威嚇行為でもあったのだが、羽ばた いては囀りながら、我々のすぐ真上の枝まで近づいてきた。逆光と暗い空の お陰でその美しいルリ色の羽根はくすんで見えたが、こんなに近くでオオル リを肉眼で観察できたことが嬉しかった。もう夏鳥の季節なんだなあ。山の 木々もすっかり萌葱色に変わろうとしていた。 雷が遠ざかり、雨は止む様子はなかったが再び降下を続けた。相変わらずタ イトなパドリングが続いた後には、溶岩壁にしっかり根を食い込ませた古木 に守られて、深淵とした瀞場が姿を現した。深く苔むした岸辺と雨にけむる 碧水の淵は、神々しさをたたえながら人間の侵入を拒絶しているようにも思 えた。この先は大きな堰堤が一個所あるのみであったが、相変わらずのタイ トな川下りは続いた。ようやく穏やかな流れが続くようになった頃には、す のーべるさんも私も疲労の色が濃く、お互い押し黙ったままゴールを目指す のであった。ちょうどすのーべるさんの会社の工場裏を漕ぎ抜けたときも、 下見でここを漕ぐことを楽しみに語ったすのーべるさんは無口のままであっ た。出艇地の取水ダムからの水力を利用する小さな発電所の下は、短い時間 に集めた雨水を放流しており、下見で見たときの倍以上の強さで対岸にまで 渦を作っていた。こわごわと左岸寄りのボイルの上を漕ぎぬけ、バイパス道 路の取付け工事の重機を右に見送った。JR山陰本線の鉄橋の下に最後の難 関があり、古い鉄骨が水中に横たわる複雑な瀬を危なっかしく越えたところ で、私の力もついに尽きたような感じがした。 雨が一段と強まる中、大河となった円山川に合流。ここでようやく二人が声 を掛け合った。「戻って来たなあ」 そのまますのーべる淵に流れ込み、重 い足取りで艇庫まで担ぎ上げた。想像もしなかった稲葉川とのタイトな闘い が終わって、艇庫で後片付けを続ける頃には激しかった雨足も緩んでいった。 筋肉のあちこちが今までに無い疲労を訴えていたし、激しいパドルワークで 握力の感覚もおかしくなっていた。 「しかし、凄い川だったなあ」 「いい川だった」 「でもさあ、知っていたら絶対に下らなかったよな、稲葉川」 「二度と行かないかも知れないけど、あの川の本当の姿、しっかり見たよね」 水量がもう少しあれば、苦労して漕ぎぬけた場所も楽になるかも知れない。 でも危険は桁違いに増すであろうことは容易に想像できた。考えてみると、 源流の神鍋高原は「神」なる文字を戴いた土地なのだ。その川に迷い込んだ 我々には、今日ばかりはラッキーの女神が微笑んだのかも知れない。でも、 ここに二度と近づいてはならないと、雷雨のあの淵や、あの滝が教えてくれ たようにも思った。神の山が流した溶岩が、あの流域を封じ込めてしまった、 そんな厳粛な気持ちにあらためて包まれて行くのを感じた。雷鳴が遠くにま だ聞こえていた。二人の信頼で漕ぎ切った春雷の稲葉川は、それぞれの心に 深くその光景を刻みながら再び幻に帰って行くのだった。 【 行動日 】98年 4月18日(土) 【 河 川 】稲葉川(いなんばがわ) 【 流 域 】兵庫県北部、円山川支流 【 コース 】岩中発電所取水ダム下(道場)〜 すのーべる淵(江原) 【漕行距離】約6Km 【 天 候 】雷雨 【メンバー】すのーべるさん on Tornade, たじまもり on Cyclone 【 タイム 】取水ダム下12:55 → ランチタイム13:10-14:30 → コーヒータイム15:15-15:40 → すのーべる淵17:05 【 川情報 】・取水ダム下から久斗地区の全域溶岩だらけ ・道場地区の6mの滝に厳重注意、 岩の左からロープによるポーテージ可 ・増水時には入らない方が無難 ・堰堤越え一個所あり、左岸寄りからポーテージ ・初心者には降下困難 ・5万図「村岡」「出石」参照
『捨て台詞を残して飛び出した娘がずぶ濡れになって家に戻り、再び家族 の絆が緩やかに復活する。窓の外には春を告げる春雷が鳴り響いている』 そんなラストシーンを、二人は雨に打たれながら思い出していた。高校時代 の文化祭で、我々のクラスが選んだ出し物は演劇だった。「春雷」というシ リアスな劇は、すのーべるさんを準主役の父親役、私が演出というやり方で 開演されたのだった。 それにしても出艇直後から降り始めた雨は、次第に強さを増すばかりで、や がて雷を伴い、雹まで降り出した。午前中の晴れ間に気を許してここまで来 たが、午後は大荒れになるとの気象台の予報は正しかった。右岸の竹薮の下 に座って、土砂降りの中で雷の通り過ぎるのを待ちながら、すのーべるさん がぽつりと口に出した駄洒落。スプレースカートを頭から被り、河原にうず くまる奇妙な親爺二人の笑い声が、一瞬雨音と川音を消した。その場で今回 の川下り紀行文のタイトルキャッチが決まった。彼はこう言ったのである。 「なあ、僕たちの"春雷"関係って、あの時から始まったんだよなあ」 すのーべる邸で今日の行先を初めての稲葉(いなんば)川に決め、車で遡上 しながらポイントを下見して回った。稲葉川は神鍋高原や蘇武岳の水を集め て、すのーべる淵手前の左岸で円山川とやわらかく合流する。いつも合流ポ イントに来るたびに感じた想像の中の稲葉川は、やさしい表情を持っていた。 下見をしながらも、二人ともその考えを大きく修正することは無かった。中 流域から上流域に変わろうとするあたり、巨大な溶岩に水路を塞がれて強烈 な勢いで細い水路から5mあまりを一気に落ち込む滝を確認したあたりで、 我々の想像が間違っているかも知れないことに気付き始めるのだった。ここ に吸い込まれたら確実に死ぬな。そんな恐怖感を、ドォードォーと轟く滝音 が助長していった。 さらに上流を目指したが、神鍋高原から雨雲が急速に近づくのが分かり、途 中で出会ったすのーべるさんの知人から、山は大荒れという情報を聞く頃に は、すっかりこの日のツーリングに対する希望が萎えていた。「今日は、あ の取水ダムの下からにしようや」 一気に暗くなって行く空の中、2キロ半 ほど戻ったダムのたもとに車を着けた。出艇したのとほぼ同じタイミングで 雨が落ちてきた。そして僅か15分下ったこの場所で、我々は激しい雨を体 で受け止め、雷鳴を聞き続けていたのだった。 少し雨足が弱まったところで缶ビールを開けた。それでも容赦無く雨水がプ ルトップから流れ込み、ビールは次第に薄まっていった。すのーべるさんが スプレースカートを頭から被り、「これ、グーよ!」などと言っている。私 もそれに従い、お互いの格好がシンデレラ城の魔女のようで、ゲラゲラと笑 った。「いやぁ、よく似合っている」「今度のハロウィンはこれで決まりだ」 雨の河原でうずくまっている時間はむしろ楽しかった。春雷の一言がトリガ ーとなって、我々の会話は当時の同級生の女の子を巡って長々と続いた。 春雷関係をかみしめるすのーべるさん 1時間ほどで最初の雷雲が去り、雨足が弱まった。ようやくお湯を沸かし、 ラーメンにした。一旦萎えた川下りの意欲も、ラーメンの汁を飲み干す頃に は復活し、雨水の溜まった艇に再び乗り込んだ。「雨が降っているときは、 フネを逆さにしないといけないなあ」、また一つ得た教訓を語り合いながら 我々は未だ見ぬワンダーランドへと漕ぎ出して行くのであった。 降下は次第に困難の色を濃くして行った。溶岩を縫って次々に現れる浅瀬や 細い水路は、ここが火山が作り出した川であることを改めて教えてくれるの だった。ほどなく大きな滝が行く手を阻んでいた。手前で下船し、様子を確 認するために崖っぷちに進んだ。岩盤を裂いて一個所に水が集中し、そのま まおよそ6mの落差となってストレートに落ち込んでいた。滝の下は深い淵 であり、命知らずのカヤッカーなら落ちても行けるだろうと思った。当然な がら、我々にはそんな勇気も技量もなかった。突然、すのーべるさんが非常 に驚いた様子で後ずさりして声を震わせた。「ヒ、ヒトが落ちたぁ!」 すぐに冷静さを取り戻した彼はもう一度観察に向かい、それが川ガキの勇気 ある遊びであったことを私に伝えた。「びっくりしたぁ、飛び込み自殺の現 場に遭遇したのかと思っちゃったよ」、興奮を鎮めながらすのーべるさんが 笑った。 ポーテージするためのルート工作に向かった私は、絶壁の上でバスタオルを 巻いて帰り支度をする3人の少年を見つけた。「お〜い、飛び込んで遊んで いたのかぁ?」 突然現れたヘルメットにスプレーぶらぶらの親爺に驚く様 子もなく、3人が首を縦に振った。「寒くないのかぁ」と問えば、あまりの 寒さにもう引き上げるところだと一人が答えた。毎年、ここで飛び込みをし て遊んでいるという。今年は今日が初めてだとも教えてくれた。貴重な生物 がまだ生息していたことを、すのーべるさんと喜び合った。垂直に近い岩壁 には適度な足場となる部分があり、レスキューベルトとスローロープを使っ て2艇を慎重に降ろした。カヌーを始めて以来、こんなスリリングなポーテ ージは初めての経験であった。少年達は叱られると思ったのか足早に去って 行き、彼らの秘密と勇気の現場を川の上から確認してから我々も先を急いだ。 ポーテージ後、川ガキの生息場所を検証する 下見で渡った町営住宅裏の橋の手前、岩盤の狭い水路をすのーべるさんが先 行した。橋をくぐったところで一旦止まり、何かを思案しているようだった が、やがて右に静かに姿を消した。OKと判断して私が続いた。先ほどすの ーべるさんが躊躇していた場所から、すのーべるさんが「来い、来い」の手 招きをしているのを見下ろした。パドルを入れてひと漕ぎしたところで、フ ワリとサイクロンが宙に浮き、そのまま加速度を体に感じながらバウから落 ちて行った。「おおっ!」と叫んだかも知れないが記憶に無い。とにかく気 付けばうまく着水して艇をコントロールしていたのだった。 「びっくりしたぜぃ!」 「いやいや、安全を確認した上で、黙ってOKを出したんだ。どう?気分は?」 振り返れば2mあまりの落ち込みがあり、我々の浮かんでいるのは静かなプ ールだった。後ですのーべるさんが語ったところによれば、静かに彼が消え たあの状況は、実は昔のTVにあったクイズ番組の滑り台で我慢する解答者 の気分だったのだという。車での下見でこの落ち込みとプールは確認してい たものの、突端まで流れてきて両腕で踏ん張ったまま今後の行動を考えてい たらしい。最初から落ちるつもりはなかったという。我慢しきれずに、万歳 をしながら風船の中へ飛び込む解答者。それがその時のすのーべるさんだっ た。手前で下見をすれば、おそらくポーテージしたかも知れないこの落ち込 みは、我々にとっては楽しい冒険記録となった。ただしこれ以降、今まで以 上に慎重に下見を繰り返しながら降下を続けたことは言うまでもない。 橋の下流にダイブした落ち込みが小さく見える 再び雷雨が強まり、カーボンのブレードを上げるたびに、ここに雷が落ちて きやしないかと冷や冷やした。右岸に上がり、雷をやり過ごしながらコーヒ ータイムにする。さきほど学習した通り、コクピットは下に向けておいた。 湯が沸く頃、頭上で鳥が美しく囀った。「おっ!オオルリ!」 見上げる木 の枝にオオルリの姿を確認した。コーヒーを啜りながら、口笛でしばらくオ オルリとのセッションを楽しむ。まあ、オオルリにとってみればいち早く確 保した自分のテリトリを荒らすものへの威嚇行為でもあったのだが、羽ばた いては囀りながら、我々のすぐ真上の枝まで近づいてきた。逆光と暗い空の お陰でその美しいルリ色の羽根はくすんで見えたが、こんなに近くでオオル リを肉眼で観察できたことが嬉しかった。もう夏鳥の季節なんだなあ。山の 木々もすっかり萌葱色に変わろうとしていた。 雷が遠ざかり、雨は止む様子はなかったが再び降下を続けた。相変わらずタ イトなパドリングが続いた後には、溶岩壁にしっかり根を食い込ませた古木 に守られて、深淵とした瀞場が姿を現した。深く苔むした岸辺と雨にけむる 碧水の淵は、神々しさをたたえながら人間の侵入を拒絶しているようにも思 えた。この先は大きな堰堤が一個所あるのみであったが、相変わらずのタイ トな川下りは続いた。ようやく穏やかな流れが続くようになった頃には、す のーべるさんも私も疲労の色が濃く、お互い押し黙ったままゴールを目指す のであった。ちょうどすのーべるさんの会社の工場裏を漕ぎ抜けたときも、 下見でここを漕ぐことを楽しみに語ったすのーべるさんは無口のままであっ た。出艇地の取水ダムからの水力を利用する小さな発電所の下は、短い時間 に集めた雨水を放流しており、下見で見たときの倍以上の強さで対岸にまで 渦を作っていた。こわごわと左岸寄りのボイルの上を漕ぎぬけ、バイパス道 路の取付け工事の重機を右に見送った。JR山陰本線の鉄橋の下に最後の難 関があり、古い鉄骨が水中に横たわる複雑な瀬を危なっかしく越えたところ で、私の力もついに尽きたような感じがした。 雨が一段と強まる中、大河となった円山川に合流。ここでようやく二人が声 を掛け合った。「戻って来たなあ」 そのまますのーべる淵に流れ込み、重 い足取りで艇庫まで担ぎ上げた。想像もしなかった稲葉川とのタイトな闘い が終わって、艇庫で後片付けを続ける頃には激しかった雨足も緩んでいった。 筋肉のあちこちが今までに無い疲労を訴えていたし、激しいパドルワークで 握力の感覚もおかしくなっていた。 「しかし、凄い川だったなあ」 「いい川だった」 「でもさあ、知っていたら絶対に下らなかったよな、稲葉川」 「二度と行かないかも知れないけど、あの川の本当の姿、しっかり見たよね」 水量がもう少しあれば、苦労して漕ぎぬけた場所も楽になるかも知れない。 でも危険は桁違いに増すであろうことは容易に想像できた。考えてみると、 源流の神鍋高原は「神」なる文字を戴いた土地なのだ。その川に迷い込んだ 我々には、今日ばかりはラッキーの女神が微笑んだのかも知れない。でも、 ここに二度と近づいてはならないと、雷雨のあの淵や、あの滝が教えてくれ たようにも思った。神の山が流した溶岩が、あの流域を封じ込めてしまった、 そんな厳粛な気持ちにあらためて包まれて行くのを感じた。雷鳴が遠くにま だ聞こえていた。二人の信頼で漕ぎ切った春雷の稲葉川は、それぞれの心に 深くその光景を刻みながら再び幻に帰って行くのだった。 【 行動日 】98年 4月18日(土) 【 河 川 】稲葉川(いなんばがわ) 【 流 域 】兵庫県北部、円山川支流 【 コース 】岩中発電所取水ダム下(道場)〜 すのーべる淵(江原) 【漕行距離】約6Km 【 天 候 】雷雨 【メンバー】すのーべるさん on Tornade, たじまもり on Cyclone 【 タイム 】取水ダム下12:55 → ランチタイム13:10-14:30 → コーヒータイム15:15-15:40 → すのーべる淵17:05 【 川情報 】・取水ダム下から久斗地区の全域溶岩だらけ ・道場地区の6mの滝に厳重注意、 岩の左からロープによるポーテージ可 ・増水時には入らない方が無難 ・堰堤越え一個所あり、左岸寄りからポーテージ ・初心者には降下困難 ・5万図「村岡」「出石」参照