ザゼンソウになごり雪


 遅く起きた日曜日、急に思い立って阿瀬渓谷に向かうことにした。庭のヤマ
 ザクラが7分咲きになって美しい。ソメイヨシノの妖艶さや儚さとは違った、
 野生のしたたかさを感じる。風に揺れる薄紅色が、私を山に誘ったのかも知
 れない。山道具を適当にザックに詰め、一人で車を出した。

 先ほど顔を覗かせていた太陽は早い動きの厚い雲にすぐに覆われて、どんよ
 りした冬空が広がっていった。見上げる但馬中央山脈には雲が掛かって、雪
 でも降っていそうに煙っていた。残雪は残っているものの、山はもう春の色
 に変わろうとしているのに、今日の天気は少し似つかわしくなかった。堤防
 を走ると、円山川のほとりは菜の花の黄色が一面を覆っていた。ヒバリが一
 羽、早口に歌いながら舞い上がった。フロントグラスに、ポツリポツリ、雨
 粒が当たった。

 三方(みかた)小学校を右に見て、先日の社員旅行で隣の席に座った若い女
 子社員のことを思い出した。彼女はこれから向かう谷の最後の集落金谷の出
 身で、小学校までの片道5Kmの道のりを毎日徒歩で通学したと話してくれ
 た。その距離をトリップメーターで確認しながら谷を詰め、正確に5Km走
 ったところで金谷の村に入った。この村の子供達は毎日10Kmを規則正し
 く歩いていることに改めて驚いた。村の入口にはオートキャンプ場の工事用
 看板が上がり、村の鎮守様の石段の前の細かった道はいつの間にか広げられ、
 静かだったこの山村にも時代の匂いがまとわり付くようになった。

 村外れの山女茶屋には休日を楽しむ人たちの車が沢山あった。ここを過ぎる
 と人家は無い。左に発電所を見下ろし、細い山道をしばらく走ったところで
 駐車場に到着。地元ナンバーの軽トラと、他府県ナンバーのセダンが一台。
 こんな薄ら寒い日に山に入っている人もいるものだと、我が身を振り返りも
 せずに思った。靴の紐を結んでいると、ミソサザイの美しい鳴き声が谷中に
 響き渡った。

 駐車場からアスファルトを少し歩く。冬枯れの渓谷は、道路からよく見通せ
 る。雪代を集めた冷たい水が、どうどうと音を立てて渓谷を下っている。東
 屋には神鍋スキー場から集めたらしい古いストックが、渓谷遊歩のために用
 意してあった。ここから山道になり、ごつごつした岩の道を登ってゆく。左
 に源太夫滝が大きな水の帯を落としているのを望み、一枚シャッターを切る。

 濡れた山道の黒い色に落ちたツバキの赤い花が美しい。春の花にはまだ早い  ようだった。わずかにスミレが小さく花を咲かせていた。時々雨が落ちてき  たが、雨具を使うほどでもなかった。やがて雨はアラレに変わり、山の風景  に白いベールを掛けた。渓谷からは相変わらず勢いの良い水の音が聞こえ、  時折ミソサザイが美しく歌った。不動滝の急坂を喘いで不動尊の祠まで登る  と、いつものことであるが、このコースの歩きは終わったような気持ちにな  る。あとはのんびりと廃村まで散策するのみ。
 左から合流する周回コースとの分岐を過ぎると、草に埋もれた人家の石垣が  方々に現れる。不動尊から上の広い範囲に渡って、江戸時代には沢山の人が  住みついて金を掘っていたという。最盛期には1000人が住んだと言われ  るこの谷に、当時の面影を見ることはない。石垣や、整地跡に当時の厳しい  生活振りを思ってみるが、もうそれらは周りの自然に完全に覆い隠されてし  まって想像すら出来ない。  このかつて人の住んだあたりに、毎年ザゼンソウが咲く。高校時代に初めて  ここで観察してからは、私にとっての金山は春先のザゼンソウの山として記  憶にとどまった。今年は山の雪溶けも早いようで、山陰に僅かに残った雪を  見かけた程度だった。雪を割って咲くザゼンソウの季節も、もう終わったよ  うだった。赤紫の法炎苞はあちこちに見かけたが、そのほとんどはもう萎れ  ており、鮮やかな黄緑の幼葉を従えようとしていた。道を外れた湿地の斜面  に、奇麗な一株をみつけシャッターを切った。この人跡一帯にのみ、ザゼン  ソウが咲くのも不思議である。その色は、人の流した血のようでもあり、遠  い昔の鉱山夫たちを鎮魂して咲き続けているのかも知れないと思ってみるの  も悪くはない。
 ザゼンソウの咲く湿地を抜けるとき、煙草をふかしながら降りてくる男とす  れ違った。手に竿を持っていた。この季節、山女でも釣れるのだろうか。  橋を渡ればすぐに金山廃村の中核、いつ朽ち果ててもおかしくない分校跡の  建物に着く。結局誰も手入れすることなく、村最後の建物も土に返ってゆく  のだろうか。その時がもうすぐそこまで来ているような気がした。分校の入  口に腰掛け、山の水を汲んで熱いコーヒーを入れようと思った。ザックを探  ってバーナーを取り出し、ん?、肝心のガスカートリッジを入れ忘れて来た  ことに気付き少しガッカリした。出掛けに用意したおやつも入っていなかっ  た。仕方なく、シェラカップの水で喉を潤した。ああ、山の水は美味い。
 ほどなく、雪が落ちてきた。風も無く、空から真っ直ぐ降りてくるような静  かな雪だった。鳥の声もしない。沢の音もいつしかなごり雪の中に消え入っ  て、静かな空間だけが小さく目の前にあった。  【 登山日 】98年3月22日(日)  【 目的地 】阿瀬渓谷  【 山 域 】兵庫県但馬  【 コース 】駐車場からピストン  【 天 候 】曇り一時雨か雪  【メンバー】たじまもり単独  【 マップ 】エアリアマップ「氷ノ山」  【 タイム 】自宅12:30 → 阿瀬渓谷P13:00-10 → 不動尊13:35 →        金山廃村14:00-14:10 → 阿瀬渓谷P15:10                         ○▲▲たじまもり▲▲☆